まうによる映画感想

落ち着きがない

【社会派胸糞サスペンス】偽りなき者 THE HUNT (2012) 【ネタバレ】

★★★★☆

2012年のデンマークの映画。トマス・ヴィンターベア監督、マッツ・ミケルセン主演。

 

あらすじ

舞台はクリスマスの近づくデンマークの小さな田舎町。幼稚園で働く主人公ルーカスは、離婚や失業を経験しながらも、子供たちに好かれ平穏に暮らしている。そんな中一人の園児クララに気に入られ、贈り物をされるが、断ってしまう。それが気に入らなかったクララは、腹いせに、ルーカスに性的な悪戯をされたと嘘をつく。園長によって、警察や園児の親たちにそれが報告されてしまい、ルーカスは町中に変質者の烙印を押されてしまう。警察には釈放されるものの、町の人々に憎まれ、村八分状態になる。仕事を失い、荒んだ生活を送るルーカスだが、クララの父親に全力で訴えることでどうにか信じてもらう。クララの嘘が発覚し、人々の信用を回復したルーカスは再び平穏な生活を取り戻す。一年後、息子とともに山に狩猟にでかけるルーカスだが、突然何者かに撃ち殺されそうになる。町にはびこる疑念は消えたわけではないことを知る。

 

徹底的リアルと、淡々と進む展開が胸糞を加速させる

いわゆる胸糞悪い系の映画は世に多くあるが、私が一番胸糞悪く感じるのがこういった冤罪モノである。 冤罪モノ、冤罪シチュエーションは観客に感情移入させるのに使われる常套手段だが、『偽りなき者』の胸糞展開は一味違う。主人公の心情と反応、そして人々のとる行動、すべてが徹底的にリアルなのだ。

展開を進めるために不自然な行動をとる人物はいないし、主人公も為すすべなく冤罪に陥る。かといって主人公の無実を信じる者がいないわけではなく、警察も不合理に無能ではない。実際、子供が嘘をついただけで有罪になるはずがなく、そういった点で非常に現実的な展開と言える。

 

また、ある種エモーショナルなシーンを挟みながらも、物語は淡々と進んでゆく。(一年後・・・といった風に) そんな描き方も相まってドキュメンタリーのような現実味を感じ、主人公が陥る冤罪の胸糞悪さがむしろ一層際立つのである。

 

特に印象深かったのが、ルーカスが恋人のナディアを追い出すシーン。周囲の人々が自分を疑い始める中で、唯一の味方でありうる恋人が自分を疑ったら……と思うと彼の激昂は非常に理解できる。彼女が何気なく発する「あなたは変質者じゃないわよね?」という一言は、別にルーカスを本気で疑っているわけではないだろう。(初めてルーカスの疑惑を耳にした際にナディアは一笑に付しているくらいである。)しかしそんな「何気ない一言」で怒り昂るほどルーカスは心理的に追い詰められているし、そもそも「何気ない一言」が問題になるのはああいった男女関係で頻繁に起こることではないか。

 

どうも私は「恋人同士の口論が非常にリアルに描かれているシーン」で感動しがちなようである。(『リリーのすべて』はそう言って点でとても感動した映画である)

 

端整に練られたプロットと伏線

感銘を受けたのが、不合理な展開が全くないことである。たいていの映画なら展開を進めるために払われる多少の無理、不合理といったものがほとんどないうえ、登場人物の行動すべてが道理にかなっている。いうなれば、「不自然になりえる部分」を、細かい描写で全て補完しているのだ。

 

例えば、

 

一人の幼稚園児がつく嘘を、大人がそろいもそろって信じるはずがない」という疑問。

たいていの映画なら、こういった「よく考えれば無理がある展開」は、観客に有無を言わせずそのまま強引に進むものである。しかし『偽りなき者』では、序盤で少年がクララにポルノを見せるシーンを挟むことでこの疑念を和らげる。園長ならびに大人たちは、「幼稚園児が男性器の勃起を知っているはずがない=嘘ではない」という判断を下すのは理にかなっているし、園長の潔癖でヒステリック気味のキャラクターからも、彼女のやや過剰な対応が裏付けられている。

 

ルーカスが、クララの父に無実を訴えるシーンでも、序盤で父が、ルーカスの嘘をつく際の癖を指摘する シーンが活きている。

 

クララが「ファニー(ルーカスの愛犬)はどこ?」と聞く際の、彼女の兄の反応で、ファニーを殺してルーカスの家に投石したのが彼である可能性をほのめかしている。(彼のマーカスに対する反応も意味ありげである)

 

こういった細かい描写でプロットは極めて現実的に進む。

 

 

胸糞悪いが救いはある

中盤の、主人公が追い詰められていく展開は、登場人物の心理描写のリアルさも相まってかなり胸糞悪い。しかし終盤で主人公の潔白が証明され、物語はかなりハッピーエンドっぽくなる。これにはかなり心安らいだ。

 

こういった胸糞ムービーを苦手とする人は、胸糞ムービーを見る前にある程度展開を知っておくのも手だろう。というのも、胸糞ムービーの中にも

などいくつか種類があって向き不向きがあるからだ。例がすべてホラー映画で申し訳ない。

『偽りなき者』は中盤で胸糞悪い展開が進むがラストは一応ハッピーエンドである。安心して(?)観ていただきたい。

 

証言の不確かさ、集団心理のおぞましさ、そして晴れない疑念

 近年、虐待や性犯罪、セクハラ、痴漢など、「被害者が声を上げにくい」犯罪について、世の中は変わりつつある。性犯罪被害者への啓もう活動や虐待ホットラインなどで、そういった犯罪が表に出るような仕組みができつつある。しかし同時に増えるのが冤罪への不安だ。「社会的弱者」が、一旦「犯罪の被害者」となれば、その立場が逆転し得るのが今の時流ではないか。その点を鮮やかに描いた『偽りなき者』は極めて社会的な映画である。

 

この映画は「冤罪モノ」というよりは「集団ヒステリーもの」に分類しやすい。主人公ルーカスが町のスーパーで買い物をさせてもらえずリンチを受けるシーンなどかなり集団感がある。舞台を、人付き合いの密接な小規模な町にすることで集団心理が誤った方向に進んでいくさまに説得力がある。欧米社会の「異常なまでの小児性愛への嫌悪」を集団ヒステリーと結びつけるのは見事である。

 

さて、ラストでルーカスを撃ち殺そうとしたのは誰なのだろう。風貌が若い男であることもあり、「クララの兄説」を挙げる人もいるだろうが、「誰でもない」というのが私の見方だ。ルーカスが冤罪を被った際にいとも簡単にそれを信じた町の人々。そう考えると、冤罪が晴れたルーカスと和気あいあいと過ごす様子も表面だけかもしれない。

犯罪における証言もそうだが、人の心理はもろく、すぐに裏返る、不確かなものである。心情は画一的たり得ず、疑念は完全に払拭され得ない。ラストの犯人は、町に残る一抹の疑念の噴出であり、人間の心理の不確定要素の象徴ではないか。