『レオン』のロケ地へ! ロケ地巡り旅行の記録 in ニューヨーク・マンハッタン
留学先大学で中間テストが終わり、1週間ばかりの「リーディング・ウィーク」だったのでニューヨークはマンハッタンへ旅行へ行こうと決意した。
観光スポットが密集している街だが、映画好きとしてはロケ地巡りをしたいところ。
ということで観光の合間を縫って数か所、お気に入りの映画(&漫画)の舞台を訪ねた。
『レオン』の舞台、レオンとマチルダのアパート
まず最優先で訪れたのが大好きな映画『レオン』のロケ地。
(google map) https://goo.gl/maps/UxkH484T9ev
物語の序盤が展開する、レオンとマチルダの一家が住むアパートである。
スタンスフィールド率いるD.E.A.が麻薬を探しに来た、
マチルダの一家が惨殺された、
そしてレオンとマチルダが出会った、
あのアパートだ。
生憎の雨天の下、ミッドタウンから電車を乗り継ぎアッパーマンハッタンの住宅街へ。
一見ごく普通のアパートだが、見比べてみるとよく分かる。
残念ながらレオンやマチルダがミルクを買った食料品店は何年も前に潰れてしまったようだが、建物はそのままである。
アパートは現在も一般住民が住んでいるようで、入り口わきには表札も見えた。
迷惑なので中には入らないでおく。
といっても実は撮影に使われたのは外観だけで、内装のロケ地はこれまたニューヨークの「チェルシー・ホテル」だそう。そちらは残念ながら現在ホテルとしては運営されていないようだ。
次に向かったのが、マンハッタン中心に広がる巨大な公園「セントラルパーク」内にある 「Pine Bank Bridge」。
マチルダの射撃練習シーンで、一般人のつもりでSP付きの要人を撃ちぬいてしまう公園。
正直どうでもいいがついでなので訪ねてみた。
『レオン』は1994年制作の映画なので、当時から23年ほど経っていることになる。にもかかわらず多くの舞台となった建物がほとんど手を付けられず残っている。
マンハッタンの街全体を見ても思ったが、古くからの建物がほとんど(少なくとも外観は)保全されており、結果として古びて有機的な、魅力ある街並みが現在も楽しめる。
日本の都会でこうした状況は珍しいのではないだろうか。開発や観光促進、文化の保全といった面で少し日本の街が参考にできる都市運用かもしれない。
『ゴッドファーザー パート2』のロケ地 リトル・イタリー
次に訪れたのが『ゴッドファーザー パート2』のロケ地リトル・イタリー。
ロウアーイーストサイドに位置するイタリア人街だ。
『ゴッドファーザー パート2』は、ファミリーのボスとなったマイケル・コルリオーネと同時に若き日のヴィト・コルリオーネも描く、二つの時間軸を持つ映画である。
このリトル・イタリーは若き日のヴィトが勤めた食料品店のある場所で、またヴィトが地域を取り仕切るマフィア ドン・ファヌッチを追いかけるシーンの舞台。
建物はどうやらおおよそ当時のままのようだ。屋根を伝い歩くヴィトが思い浮かぶ。
人種のるつぼ・アメリカは何世代にも渡ってあらゆる国々から移民を受け入れてきたわけだが、時代によって移民の国籍には特色がみられる。『ゴッドファーザー』のヴィトのような南部イタリアからの集団移民は (ヴィトはシチリア島出身)、18世紀の終わりから19世紀始めにかけて多く、ヴィト・コルリオーネはまさにそうした移民の一人。
そうしたイタリア系移民たちは、ほかの白人系移民と違い、自身の文化や習慣を守ろうと生きる傾向があり、結果としてリトルイタリーのような自分たちのコミュニティを形成した。
しかしそうした保守的文化や(家父長制を重んじるため共働きを許さない=世帯収入が少ない)、英語能力の問題(同時期に多かったアイルランド系移民はもちろん英語が母語であった)などからイタリア系移民は貧しい暮らしを持つことが多くなり、しだいに組織的犯罪やみかじめ料の徴収で収入を得る集団が出てくる。こうした背景でできていったのがニューヨークを跋扈したイタリアン・マフィアで、
結果、20世紀のイタリア系移民に対する「貧しく学のない移民」または「社会を裏で牛耳るマフィア」といったステレオタイプが出来上がった。
『ゴッドファーザー』や『レオン』はそうしたイタリア系移民の負の背景を描いた作品なのである。(レオンのボスや生い立ちを思い出していただきたい)
(おまけ) STEEL BALL RUN のゴール、ブルックリン橋~トリニティ・チャーチ
最後に訪れたのが漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の第7部『STEEL BALL RUN』の最終巻のロケ地(?)。
SBRレースの最終目的地マンハッタンで、レースが行われたルート通りに
ブルックリン・ブリッジ ➡
トリニティ・チャーチ
と訪ねてみた。
ジョニィがDioに敗れたブルックリン橋。マンハッタンの摩天楼が一望できる。
こちらが最終ゴール地点のトリニティ・チャーチ。中に入れたがいたって普通の礼拝堂で、聖なる遺体は見当たりませんでした。
【革新的恐怖演出】Get Out ゲット・アウト(2017)【ネタバレ無し】
★★★☆☆
監督 ジョーダン・ピール
制作 ジェイソン・ブラム
主演 ダニエル・カルーヤ
アリソン・ウィリアムズ
あらすじ
アメリカに暮らす黒人青年クリスは、白人のガールフレンド、ローズの実家に挨拶に行くことになる。クリスが黒人であることを両親には伝えていないと聞き、少し不安がるクリス。彼女の家族が住む住宅街に、黒人は他に居ないという。
いざ到着するとそんな不安とは裏腹に、ローズの両親は温かくクリスを迎える。パーティに集まった白人たちも皆やさしく接してくれる。
しかし、不可解な出来事が次々に起こりクリスは疑心を持ち始め……
アフリカン・アメリカンにとっての”恐怖”とは
あなたは何に対して「恐怖」を感じるだろうか。
私たちが何に対して純粋な恐怖を持つのかは、私たち自身の Ethnicity (民族性) に強く依拠している。
スティーブン・キング原作の映画『痩せゆく男』では、主人公のアメリカ人男性がアメリカ先住民の呪いを受け、やせ細ってゆく。この「先住民の呪いを受ける」という恐怖描写は、先祖たちが先住民を殺戮、迫害したいわば血塗られた土地で犠牲の上に住む「アメリカ(白)人」だからこそ胸に迫るものであり、遠い異国に住み異なったEthnicityを持つ私たちがその恐怖を同じように感じることはできないだろう。
映画『インシディアス』で主人公一家は「悪魔」に襲われるが、敬虔なクリスチャンが「悪魔」に感じる恐怖と、仏教徒が感じる恐怖ははたして等しくあり得るだろうか?
私たちが社会の中で感じる「恐怖」は、個々人の文化的背景、宗教、死生観に依るものなのである。
『ゲット・アウト』が描くのはアメリカに暮らす黒人アフリカン・アメリカンにとっての恐怖だ。彼らの文化背景は言うまでもなく差別・抑圧の歴史である。先祖たちが白人によって「輸入」されてきたルーツや、白人の家庭で奴隷として扱われた過去は彼らにとってある種の恐怖を煽るものだろう。
そして重要なのが彼らへの差別はいまだ根強くアメリカに存在していることである。黒人への差別、白人の生来的特権は、彼らの多くが育ってゆく中で何らかの形で経験する。
『ゲット・アウト』の舞台のような、保守的な白人ばかりが集う住宅街はアメリカに実際に多く存在する。特に南部では、いまだ南北戦争時代の南側の国旗を掲げているような家々が並んでいたりする。
『ゲット・アウト』で主人公が体験する状況の恐怖は、「確かに起こりうる」身近な実感をもってアフリカ系アメリカ人を襲うのではないだろうか。白人しかいない孤立した住宅街で、自分一人が黒人であるという状況。この居心地の悪さ、緊張は確かな共感をもって彼らの目に映るだろう。
様々な心理的恐怖描写
『ゲット・アウト』中盤から終盤で描かれる、また違った種の「恐怖」は、より根源的な、心理に訴える描写であり、どんなEthnicityのもとでもだいたい等しく、恐ろしく思えるものだ。それは「閉じ込められる恐怖」であり、「自分が自分でいられなくなることへの恐怖」である。想像するだけで恐ろしい設定と、その描写は見事である。
社会派ホラーと思いきや…?
人種差別を主眼に描いた社会派サスペンス・ホラーかと思わせる序盤の展開だが、物語は終盤で思わぬ展開へ進む。正直言ってオチは荒唐無稽なものである。
だが無理してメッセージ性を持たせるよりかは好感を持った。
先の読める展開、あからさまなミスリード、少し陳腐な恐怖描写、ご都合主義的な幸運、万能すぎる催眠術、そしてどう考えても科学的にありえなさすぎる設定など突っ込みどころは目立つが、全体として斬新な「恐怖」を描いており、楽しく鑑賞できた。
またキャスティングと演技が(特に黒人俳優たち)非常に素晴らしかったと思う。セリフのイントネーションや話し方の区別(『黒人っぽい英語』というものがある)も重要な演出になっているので、英語音声での鑑賞をお勧めしたい。
【コミカル・タイムリープ・ホラー】HAPPY DEATH DAY ハッピーデスデイ【日本未公開】【ネタばれ無し】
★★★★☆
日本未公開(12月12日時点)の作品をカナダの映画館で視聴。
監督 クリストファー・B・ランドン
制作 ジェイソン・ブラム
主演 ジェシカ・ローズ
あらすじ
9月18日、女子大生のテレサは、同じ寮に住む男子学生の部屋で目を覚ます。この日は彼女の誕生日であるが色々と浮かない出来事が続く。夜になり、自身の誕生日パーティーの会場に向かうテレサだが、赤ちゃんのお面をつけた何者かにつけられ、刺殺される。
気が付くと朝、ベッドの中である。どうやら9月18日の朝にタイムリープしたことが分かる。自身の殺害を阻止しようとするが、失敗する。
何度もタイムリープを繰り返すうちに、いくら阻止しようとしても違った筋書きで殺害されてしまうことが分かる。タイムリープで得た手掛かりを生かして何とか犯人を突き止めようとするテレサだが……
売れるべくして売れた、ティーン向けタイムリープものの傑作!
10月13日の金曜日という絶好のホラー日和に全米公開され、当初の期待を上回る大ヒットを記録した映画である。ティーンの間で口コミで流行ったとか。
実際に鑑賞して思ったのは、これはそりゃ売れるわ。ということ。
トレイラーはいかにもなホラー映画然としていたが、実際ホラー・グロ描写は非常に少なく、むしろジョーク、小ネタのコメディの嵐。誇張抜きで、2,3分に一回はちょっとしたジョークかコミカルシーンが挟まれていた印象。ジャンル分けするならばタイムリープ・ドタバタ・サスペンスといったところか。
それでいて設定を見事に生かしつくした巧妙なプロットであり、予想を大裏切りするどんでん返しもあり。きちんと理にかなった伏線が巧みに回収される。
登場人物のキャラクターも立っており、ちょっとした掛け合いや小ネタ、意外な人物の活躍など見所十分。映画館では歓声や笑い声が絶えなかった。(こちらの風土もあるが)
全体として笑い、ハラハラ感を常に提供しつつ最後はきっちり驚くべき展開に収束させる。見終わって一番に出た感想は「楽しかった!」であった。”It” が北米と同様にティーンに受けた日本で、この映画も売れると思う。日本公開はないのであろうか。
「B級ホラー」と評されているのもいくらか見たがそうは思わない。ハッピー・デス・デイはれっきとした極上の大衆向けエンターテインメントである。ホラー映画を期待して観ると肩透かしを食らうかもしれないが、タイムリープものとして一見の価値あり。おすすめ。
【洒落怖ネットオカルト洋画⁉】Temple 【NETFLIX】
★★★☆☆
あらすじ
大学生のケイトは、宗教学の勉強の為にと日本への旅行を計画する。同行者には少し日本語ができる友人のクリスと、恋人のジェイムズ。日本へ着いた一行は、街角の古本屋で見つけた奇妙な本を手掛かりに、とある田舎の山中にある寺を目指すが、そこでは不可解な出来事が起こり……
洒落怖ネットオカルト感のある洋画B級ホラー
まず冒頭で竹中直人が登場して驚かされた。脇役ではあるが大御所がなぜこんな作品に出演しているのだろう。
アメリカ製で日本を舞台にしたホラー、というだけで、おおよそトンデモ日本がエキゾチックに描かれているのだろうとあまり期待していなかったが、意外にも舞台設定はしっかり「日本」であった。どうやら制作に多くの日本人が関わっているらしい。
プロットは、荒木飛呂彦が言うところの「田舎に言ったら襲われた系ホラー」で、典型的ではあるが、舞台が日本の田舎村というのは洋画B級ホラーには新しく感じた。
田舎村、奇妙な伝説、神隠し、といった要素はいわゆる洒落怖系ネットオカルトっぽく、神秘的に撮られた日本の山の映像美もあいまって、中盤まではかなり楽しめた。言ってみれば洒落怖×ブレア・ウィッチといった感じである。クリス役のあまりにも拙い日本語や寺院に不自然に置かれた西洋風の銅像などいくつか気になる点はあれど。
ただ終盤いよいよ襲われた場面からは途端に陳腐に感じた。「いかに見せないか」が重要な低予算ホラーにがっつりCGの怪物が登場するのはいただけない。一昔前のB級ホラーの陳腐さと比べるとずいぶん進歩を感じるが、やはり恐怖の実態は極力見せないで神秘的な雰囲気を保ってほしかった。
二重構造やどんでんがえし(的なもの)はあれど筋書きはよくあるネットオカルトそのもの。神秘的なロケーションと映像美はよかったがB級ホラーの枠組みは出ないように感じた。ただ洒落怖的雰囲気が洋画に収められているのは新鮮であり、外国人にはかなり魅力的に映るではのではないだろうか。
【社会派胸糞サスペンス】偽りなき者 THE HUNT (2012) 【ネタバレ】
★★★★☆
2012年のデンマークの映画。トマス・ヴィンターベア監督、マッツ・ミケルセン主演。
あらすじ
舞台はクリスマスの近づくデンマークの小さな田舎町。幼稚園で働く主人公ルーカスは、離婚や失業を経験しながらも、子供たちに好かれ平穏に暮らしている。そんな中一人の園児クララに気に入られ、贈り物をされるが、断ってしまう。それが気に入らなかったクララは、腹いせに、ルーカスに性的な悪戯をされたと嘘をつく。園長によって、警察や園児の親たちにそれが報告されてしまい、ルーカスは町中に変質者の烙印を押されてしまう。警察には釈放されるものの、町の人々に憎まれ、村八分状態になる。仕事を失い、荒んだ生活を送るルーカスだが、クララの父親に全力で訴えることでどうにか信じてもらう。クララの嘘が発覚し、人々の信用を回復したルーカスは再び平穏な生活を取り戻す。一年後、息子とともに山に狩猟にでかけるルーカスだが、突然何者かに撃ち殺されそうになる。町にはびこる疑念は消えたわけではないことを知る。
徹底的リアルと、淡々と進む展開が胸糞を加速させる
いわゆる胸糞悪い系の映画は世に多くあるが、私が一番胸糞悪く感じるのがこういった冤罪モノである。 冤罪モノ、冤罪シチュエーションは観客に感情移入させるのに使われる常套手段だが、『偽りなき者』の胸糞展開は一味違う。主人公の心情と反応、そして人々のとる行動、すべてが徹底的にリアルなのだ。
展開を進めるために不自然な行動をとる人物はいないし、主人公も為すすべなく冤罪に陥る。かといって主人公の無実を信じる者がいないわけではなく、警察も不合理に無能ではない。実際、子供が嘘をついただけで有罪になるはずがなく、そういった点で非常に現実的な展開と言える。
また、ある種エモーショナルなシーンを挟みながらも、物語は淡々と進んでゆく。(一年後・・・といった風に) そんな描き方も相まってドキュメンタリーのような現実味を感じ、主人公が陥る冤罪の胸糞悪さがむしろ一層際立つのである。
特に印象深かったのが、ルーカスが恋人のナディアを追い出すシーン。周囲の人々が自分を疑い始める中で、唯一の味方でありうる恋人が自分を疑ったら……と思うと彼の激昂は非常に理解できる。彼女が何気なく発する「あなたは変質者じゃないわよね?」という一言は、別にルーカスを本気で疑っているわけではないだろう。(初めてルーカスの疑惑を耳にした際にナディアは一笑に付しているくらいである。)しかしそんな「何気ない一言」で怒り昂るほどルーカスは心理的に追い詰められているし、そもそも「何気ない一言」が問題になるのはああいった男女関係で頻繁に起こることではないか。
どうも私は「恋人同士の口論が非常にリアルに描かれているシーン」で感動しがちなようである。(『リリーのすべて』はそう言って点でとても感動した映画である)
端整に練られたプロットと伏線
感銘を受けたのが、不合理な展開が全くないことである。たいていの映画なら展開を進めるために払われる多少の無理、不合理といったものがほとんどないうえ、登場人物の行動すべてが道理にかなっている。いうなれば、「不自然になりえる部分」を、細かい描写で全て補完しているのだ。
例えば、
「一人の幼稚園児がつく嘘を、大人がそろいもそろって信じるはずがない」という疑問。
たいていの映画なら、こういった「よく考えれば無理がある展開」は、観客に有無を言わせずそのまま強引に進むものである。しかし『偽りなき者』では、序盤で少年がクララにポルノを見せるシーンを挟むことでこの疑念を和らげる。園長ならびに大人たちは、「幼稚園児が男性器の勃起を知っているはずがない=嘘ではない」という判断を下すのは理にかなっているし、園長の潔癖でヒステリック気味のキャラクターからも、彼女のやや過剰な対応が裏付けられている。
ルーカスが、クララの父に無実を訴えるシーンでも、序盤で父が、ルーカスの嘘をつく際の癖を指摘する シーンが活きている。
クララが「ファニー(ルーカスの愛犬)はどこ?」と聞く際の、彼女の兄の反応で、ファニーを殺してルーカスの家に投石したのが彼である可能性をほのめかしている。(彼のマーカスに対する反応も意味ありげである)
こういった細かい描写でプロットは極めて現実的に進む。
胸糞悪いが救いはある
中盤の、主人公が追い詰められていく展開は、登場人物の心理描写のリアルさも相まってかなり胸糞悪い。しかし終盤で主人公の潔白が証明され、物語はかなりハッピーエンドっぽくなる。これにはかなり心安らいだ。
こういった胸糞ムービーを苦手とする人は、胸糞ムービーを見る前にある程度展開を知っておくのも手だろう。というのも、胸糞ムービーの中にも
- 徹底的な救いのない胸糞展開が進む映画 (例:ファニーゲーム)
- 序盤が胸糞悪い展開がすすみ、終盤でそれにリベンジすることでカタルシスを得られる映画 (例:ヒルズ・ハブ・アイズ)
-
ラストの展開が胸糞悪い映画 (例:ミスト)
などいくつか種類があって向き不向きがあるからだ。例がすべてホラー映画で申し訳ない。
『偽りなき者』は中盤で胸糞悪い展開が進むがラストは一応ハッピーエンドである。安心して(?)観ていただきたい。
証言の不確かさ、集団心理のおぞましさ、そして晴れない疑念
近年、虐待や性犯罪、セクハラ、痴漢など、「被害者が声を上げにくい」犯罪について、世の中は変わりつつある。性犯罪被害者への啓もう活動や虐待ホットラインなどで、そういった犯罪が表に出るような仕組みができつつある。しかし同時に増えるのが冤罪への不安だ。「社会的弱者」が、一旦「犯罪の被害者」となれば、その立場が逆転し得るのが今の時流ではないか。その点を鮮やかに描いた『偽りなき者』は極めて社会的な映画である。
この映画は「冤罪モノ」というよりは「集団ヒステリーもの」に分類しやすい。主人公ルーカスが町のスーパーで買い物をさせてもらえずリンチを受けるシーンなどかなり集団感がある。舞台を、人付き合いの密接な小規模な町にすることで集団心理が誤った方向に進んでいくさまに説得力がある。欧米社会の「異常なまでの小児性愛への嫌悪」を集団ヒステリーと結びつけるのは見事である。
さて、ラストでルーカスを撃ち殺そうとしたのは誰なのだろう。風貌が若い男であることもあり、「クララの兄説」を挙げる人もいるだろうが、「誰でもない」というのが私の見方だ。ルーカスが冤罪を被った際にいとも簡単にそれを信じた町の人々。そう考えると、冤罪が晴れたルーカスと和気あいあいと過ごす様子も表面だけかもしれない。
犯罪における証言もそうだが、人の心理はもろく、すぐに裏返る、不確かなものである。心情は画一的たり得ず、疑念は完全に払拭され得ない。ラストの犯人は、町に残る一抹の疑念の噴出であり、人間の心理の不確定要素の象徴ではないか。